280

「はじめさーん!」

 両手をぷらぷらと振りながらそう呼びかけて、彼女が寝室を覗き込むのは、今夜これで何度目だろうか。最初の一、二回は、呆れながらも自分を頼る彼女が微笑ましくて、読みかけの本を伏せては気の良い返事をした観月だった。しかしたった一時間のうちにこれでもう六回目である。その都度中断される読書は、同じところを行ったり来たり。一向にはかどらない苛立ちで、極限まで眉間に皺を寄せ、それでも一応「何ですか」と返事をする自分の律儀さがときに歯痒い。

「お願いがあるの」
「次は背中が痒い?それともティーバッグを開封?…すこしくらい自分で工夫したらどうなんだ」
「だって!仕方ないじゃないですか。はじめさんだって言うじゃない。いつも綺麗にしておきなさい、って」

 唇を尖らせながら、普段の自分の口癖を取り出す彼女のほうが、今日に限っては一枚上手だった。まさにそのとおり、ぐっと言葉を詰まらせる観月が、本を毛布に叩きつけ、ベッドから脚を下ろしたら、勝ち誇ったような彼女の表情がある。その指先には、肌の色と同化してわからぬくらい控えめなヌードベージュの爪。美しく整えられてケアされた、控え目なカラーと艶はこれ以上なく好ましい。明日からまた一週間を働き抜くための気合いとして、改めて塗り直されたポリッシュなのだった。
 しかしその頭痛を催すシンナー臭にはいつになっても慣れなくて、こうして別室に避難している観月だった。彼女も重ね塗りしたネイルカラーが乾くまで、と。どれだけ些細でも指先を使う用事があるとき以外は、この隣に潜り込んで来ようともしない。それがまた観月にとっては面白くなかった。

「で。一体何ですか」
「うん。窓開けてたら寒くなってきちゃったから…閉めてもらえませんか?」

 一応は遠慮がちに小首を傾げ、見上げるこの角度でお願いすれば、おおよその要望なら聞き入れられるとわかってやっている。頭脳派を自認する男がまんまと操られているのが妙に癪に触って、観月は無言でぴしゃりとリビングの窓を閉めるのだった。
 そして改めて彼女へと向き直り、睨み付けるかの視線を送る。腕を組み、何やら考え込むことしばし。ふっと唇の端を上げたら、もったいぶった口調で喋りはじめた。

「まったく…人を何だと思ってるんですか。くだらない用事に付き合わされて、それなりの対価をもらわなくては納得いきません」
「対価?でも、わたし、まだ爪が」
「ええ。手を使わなくても充分可能です」
「え?」
「ここを使いなさい」

 そう言ってしどろもどろに瞳を泳がせながら手をひらつかせている彼女の唇に、観月は人差し指の先で触れた。え、と戸惑う彼女が瞬いているうちに、「できないなら僕からいただきます」と、彼は唇を伝ってその代償を取り立てる。立ちすくむ彼女の膝の高さ、ローテーブルに置かれた速乾タイプのベージュのポリッシュは、その指先で早々に乾ききっていることを、観月だけが知らない。

2020.09.27