Ex.IS-01

 珍しくないけど珍しい。放課後通り抜けた中庭から、窓が開け放たれた化学教室を覗き込み、彼女はそんなことを思った。こんな視線も、さすがに部屋の中までは届くまい。しかし彼にかかればそんな考えはやはり浅はかなものに過ぎなくて。音も立てず思慮深く、そう自称していた振る舞いは、分厚い眼鏡の奥の瞳に簡単に捉えられてしまうのだ。

「やあ」

 そして鉛筆を動かす手を止めて彼女へと視線を送り、乾はそんなふうに投げかける。

「ごめんね、邪魔した?」
「いや。こういうのを邪魔とは言わないよ」

 明らかにもっと賑やかしい別のケースを脳裏に浮かべながら、彼は完全に筆記具を置き、休憩モードに入ってしまった。自分のせいで作業を中断させてしまったと、彼女がほんのすこしの困惑を混ぜて笑ったら、彼はそれを見透かしたように、「ちょうど休憩しようと思ってたんだ」と、誰に向けるでもなくそう呟いた。

 窓越しであるにもかかわらず、部屋の奥からは、その場所に独特の薬品のにおいが滲み出してきている。そんな特殊な環境に、誰も好き好んで近寄ったりしないことを熟知して、この人はあえてこの教室を選んでいるのだろう。もっとも、個人的な事情で特殊な実験に没頭するという目的もあったにせよ、部活を引退した今、その光景のほうが珍しいのかもしれない。となると、いまここにあるのは珍しくない光景と言うべきか。彼女はひとり、頭の中で絡まりあった難解な思考を持て余し、忙しく眉毛を動かしている。

「何か難しいことを考えてるみたいだね」
「えっ?」
「ふむ。俺が実験もせずここにいるのは珍しいと思う、というところか」
「…どうしてわかるの」

 たとえばそれが一方的なものだったとしても、思いを寄せていれば思考は似てくるのかもしれない。あれこれと思いを巡らせる自らのやり方が、最近やけに理屈っぽいと、彼女自身が薄々感じている。さらにこの男は、そんな気付きを見透かすように言い当ててくる。それがなんとなく面白くなくて、彼女は黙り込んでしまった。
 訪れた沈黙が気まずくて、話題を逸らす先を探して彼女は睫毛を動かしてみる。窓際の席、磨けども黒くくすんだ実験用の長机の端、コーヒーのカップが置いてある。勉強のお供にと乾が持ち込んだものなのだろう。けれどその匂いよりも先に、薬品のにおいを感じてしまうあたり、すでにそれは飲み干されているに違いない。だから彼女は冗談めかして、こんなことを投げかけた。

「コーヒー飲んでたの?」
「え?ああ、そうだよ。食堂の横に新しくできた自販機のコーヒーが、なかなか美味しくてね」
「それも珍しい気がする」
「どういうことだ?」
「だって、乾くんなら、ビーカーでコーヒー沸かしてそうだもん」

 彼女の発言を真正面から受け止めて、乾は腕を組み、軽く眼鏡のブリッジを押し上げたのち、視線だけを左上に投げる。しばし何やら考え込み、やがて唇を割って、およそ彼らしい理屈がこぼされるのだ。

「なるほど。しかしアルコールランプの熱量で水を沸騰させるとなると、500mlを沸かすのに約15分…コーヒーカップ一杯が180mlだとすると、ドリップに必要な水の量は…」
「…なんだかごめんね」
「え?何がだ?」
「難しいこと考えさせちゃって」

 頭の中で展開させはじめていた数式を一旦仕舞い込み、乾は心持ち残念そうに、そしてばつが悪そうに「そんなことないよ」と呟いた。

「とにかく。それは非合理的だな。だから、はい」
「え?」

 そう言って乾らしくもなく、前後の脈絡も無視して、彼の大きな身体の影になっていた反対側の机の端から、チルトカップのカフェオレを取り、彼女の手の中にねじ込んだ。長い腕は窓枠を軽々と乗り越えて、簡単にそれを届け終えてしまう。それはこの九月の終わり、すっかり夏の暑さを忘れた風の中でもぬるくなり、しっかりと汗をかいていた。きっと紙コップのコーヒーとともにこの部屋に持ち込まれていたに違いない。

「…くれるの?わたしに?」
「ああ。来るだろうと思ったから」
「そんなのわからないじゃない。もしかしたら、ここを通らなかったかもしれないのに」
「…その可能性は考えてなかったな。まあとにかく、実際にお前はここに来て、無事渡せたわけだからね」

 満足そうに頷く乾を見ていたら、果たしてそれは確率統計的な理論というよりもむしろ、感情論的なものに思えてきた。ならばこのカップを握りしめる指先も、頬も、耳も、身体中が緊張で熱くなる。俯き加減の睫毛を上げて、「そっちで飲んでもいい?」と彼女が問えば、彼は何の迷いもなく「待ってるよ」と頷いた。

2020.09.28