結ばれている

わざわざ上級生の教室を後方から覗き込み、「観月先輩」と呼びかける声は、涙の気配で震えていた。すべての授業を終えた放課後、開放感に浮かれるざわめきの中でも消されることなく、それは観月の耳に届けられる。その声が誰によるものかなど、もはや振り返って確認するまでもない。

とはいえ、珍しいタイミングでの珍しいトーンだと思った。ここに彼女が赴いてくれることは、観月にとってはまんざらでもないのだけれど。たった一歳の差とはいえ、上級生に遠慮して、そして彼のクラスメイトから冷やかされることで受ける気恥ずかしさゆえ。彼女はなかなかこのフロアへと足を向けようとしない。メッセージで待ち合わせ場所を指定し合うのが常だったから、よほど何かあったのだろうかと、ただ心配が先に立つ。けれど過保護であることはよしとしない。だからスマートに立ち上がり、年上らしい落ち着きで「どうしました」と歩み寄ろうと思っていたのに、心の動揺が滲み出た結果、観月は盛大に椅子の脚に引っかかってよろけてしまった。

がたん、と派手に鳴り響いた音に引き寄せられた視線を、睨みつけることで駆逐して、観月は軽い咳払いとともに颯爽と自分を呼ぶ人の元へと近寄った。まったく格好がつかないと、ちいさく弾いた舌打ちの音は、彼女の耳には届いていないようだった。

「…先輩、大丈夫ですか?」
「…何のことでしょう」
「だって、さっき、脚…」

目をぱちくりとさせて観月を案じる表情を咳払いで制して、観月は素知らぬ顔をした。往々にして鈍いのに、こういうことだけはストレートに切り込んでくる彼女の素直さの前では威厳も何もあったものではない。わざとらしくもう一度咳払いをし、観月は慇懃に前髪を払い、およそ年長らしい雰囲気で彼女に問いただすのだった。

「そんなことはどうでもいいんです…それより、どうしました?」

つまずいた観月を案じるがゆえ、一瞬涙を引っ込めて睫毛を瞬かせていたのに。思いのほか優しい言葉がかけられて、彼女の瞳はみるみるうちに、再び潤みはじめるのだった。ならば改めて狼狽するのは観月のほうだった。

志乃、きみ、…ここでは」
「ごめんなさい、先輩」
「何がです?」
「わたし…しばらく一緒に帰れません」

その台詞を言い終わり、大きく息を吸い込むことで、悲しみを押し込んでいるようにも見えた。そして俯く長い睫毛に観月のほうが困惑してしまって、思わず腕を掴もうとしたら、普段の放課後の彼女とは違い、その袖は体操服のものである。ならばもちろん、こげ茶のスカートではなく学校指定のジャージ姿で、よく見れば手の甲や肘は擦り傷だらけ、鼻先には砂までついている。観月は怪訝な顔で、その状況の説明を求めるのだった。

「さっきから聞いていれば、一体何なんです。ちゃんと説明しなさい」
「でも、先輩!もうわたし、…体育祭なんて嫌です!」

しかし観月の問いに答えることなく、そう叫んで、わっと顔を覆い、遂に彼女は泣き出してしまった。こうなれば傍目には、観月と彼女の修羅場であるとしか映らないだろう。

志乃!ちょっと…とりあえず歩きましょう」

突然のことに観月もすっかり気が動転してしまって、そんなありきたりな台詞で、人目を避けるために彼女を誘い出すのだった。まったく今日は何をやっても格好がつかない。そんな不満を胸の奥に隠しながら。



途中の自動販売機で紅茶のペットボトルを購入し、ふたりは放課後の屋上にたどり着いた。グラウンドや校舎の方々から、ランダムにざわめきが鳴り響いている。そんな雑多な声を吹き散らしながら、眩しい昼下がりの光の間を縫って、涼やかな風が通り抜けてゆく。まだ汗がにじむような気候であっても、季節は確実に進んでいて、その爽やかな空気にほっと一息。観月は彼女に「飲みますか」とペットボトルを示してみせる。ならば無言で頷きが返されたから、未開封のそれの封だけ切って、はい、と手渡してやるのだった。

「ありがとうございます…先輩、ごめんなさい」
「いえ、それはいいんです。確かに、さっきは驚きましたが。で、一体何が?」

観月が開封して緩んだ蓋を外し、涙と一緒にそれをひとくち。はあ、と彼女が吐いた細いため息に、紅茶の甘味料の香りが混ざっている。しゅんと鼻を鳴らし、改めて観月を見上げ、彼女はまた瞳を潤ませる。

「ほら、泣かない。泣かずに言ってみなさい」
「はい」

まるで幼稚園児のようだと呆れながらも、従順に頷くその長い睫毛を見ている。

「わたしたちの学年、今年、二人三脚じゃないですか」
「え?…ああ、体育祭ですか」

唐突に切り出された話題に少々困惑しながらも、観月は去年、自分もその競技に出場した記憶を思い出していた。毎年、その学年に踏襲される種目があって、それが今年の彼女にとって二人三脚なのだった。彼女はペットボトルの蓋を締めたり緩めたり。手持ち無沙汰に弄びながら、もう一度嘆きのため息を落とした。

「はい。なんですけど、わたし…全然できなくて…何回やってもペアの子に引きずられて…転んでばっかりで。今日はとうとう怒らせちゃって。体育祭まで毎日練習することになったんです」

そこまで一気に語り、瞳には瞬きひとつでこぼれ落ちてしまいそうなほど、涙が盛り上がっている。引き延ばしたジャージの裾で顔を覆って、さめざめと目尻を拭っている。それ以上めくると危ない。そんな場違いな言葉が喉元まで出かかっているのに思わずその光景に目が釘付けられて、代わりに周囲に人がいないことを、観月は改めて確認するのだ。

彼女の悲しみの理由は、自分への苛立ちと、苦手への嫌悪感と。そしてしばらく観月と離れ離れ。そんな要素が絡み合った結果のものであるらしかった。

赤くなった目に、ペットボトルの中の琥珀色が映り、ますます泣きはらしたように見える。もう一度その蓋をはずして弱々しくひとくち。彼女は追加で悲しみの吐息を落とした。観月は人差し指の先で、風に乱された前髪を振り払い、何やら考え込んでいる。やがてトン、と額に触れて、おもむろにその指先で自らのネクタイの結び目に指をかけた。そして、ぐい、と結び目を引き下げそれを解く。ヒュウ、と吹く風の音を切るように、きゅ、とシルクの擦れる音がする。

「なるほど。それは厄介ですね」
「…先輩?」
「では、僕がすこしだけ助けてあげましょう」

結び目に皺が寄ったそのボルドーのタイをぴんと真っ直ぐ張って伸ばし、彼女の眼前に掲げてみせた。それに対して目をぱちくりとさせ、ただ立ちすくむ彼女の隣、肩と肩がぶつかる距離でしゃがみ込み、観月は自分の左足首と彼女の右足首を、そのネクタイで器用に縛り付けてしまうのだった。

「観月先輩、これ?」
「はい。見ての通りです」
「あ、二人三脚?」
「そうです。確かに他人と息をあわせるのは難しいですが、コツが分かればなんとかなるものです。大体きみは、右手と右足が同時に出るタイプでしょう」
「…!」
「あとは、パートナーとの相性ですね」

僕に任せておきなさい。そう言って観月はそっと彼女の腰に手を添える。上空の強い風に散らされる彼女の髪の香りも、目と鼻の先。大分薄まった昨晩のシャンプーの香りと制汗剤が混じりあって、甘く穏やかな空気を作り出す。これはいつだったか、ずらりと並んだドラッグストアで、自分が好きだと言った香りだと気づき、観月は思わず目を細めた。

「まずは脚を出すタイミングです。内から出すか外から出すか。それはペア次第ですけど、くっついている足から出すのが最善でしょう」

二人三脚の体制として無意識であるのだろうけれど、彼女もいつしか自分の右腕を、観月の腰へと回している。真剣な眼差しで、ひとつひとつ頷くその表情を突き動かすのは、自分と過ごす時間のためだったらいい。観月はふとそんなことを願い、そして緩く首を振って邪念を払い、彼女の誠実に応えようとする。

いち、に、いち、に。

人気のない屋上に、観月がタイミングを取る声だけが響いて、最初はよろけ、観月にもたれかかっていた彼女も、いつしか自立して足踏みをする。

「わあ!すごい!引きずられない!」
「…それが普通なんですけどね。まあいいでしょう」

いつしか顔を輝かせ、屋上で繰り広げられる、制服と体操服のペアによる二人三脚は滑稽な光景でもあった。屋上のフェンス沿いをくるりと一周、蜂蜜色に溶けるグラウンドの砂が眩しく見える。緑の木々の間から覗く、講堂の尖塔も。そんなものを見渡し、ようやく観月は、彼女の鼻先についたままだった砂粒を、親指の先で払ってやった。

不意打ちで触れた硬い親指の感触は、よく知るものであっても、前触れがなければ驚きでしかない。途端、目を見開いた彼女は両脚にブレーキをかけてしまって、今度は観月がそれに引っ張られ、倒れ込むところだった。

「あ、先輩!」

彼女が飛ばした悲痛な声を、妙に落ち着いて聞きながら。隣の人だけは巻き添えにすまいと、無我夢中でステンレスのフェンスの網目に指をかけた。かしゃん、と鈍い音がして危機一髪、観月も留まり、ぎゅっと目を瞑った彼女はフェンスと観月の間に挟まれている。

「…志乃
「ごめんなさい!急に…わたし、びっくりしちゃって」

呆れ果て、けれど安堵のため息を吐き、観月は思う。今日は格好がつかないことばかりだと。それでも彼女の背景に淡い秋の空の色を見て、心が絆される。不可抗力でしかない接近を言い訳に、頬を染めた彼女が睫毛を伏せるから。

「…まったく」

そんなひとことを、軽く眉間に皺を寄せて唱えるのだけれど、説得力など何もなかった。引っ張られた衝撃で解けてしまっていた足首のネクタイは、それ以上の観月の進行を阻まない。だから遠慮なくぐっと一歩を踏み込んだ。体勢を立て直した観月の右手は改めて彼女の鼻筋と、そして頬を撫で、瞳を閉じよと命じている。その合図に従いそっと睫毛を伏せた唇に、自分のそれを重ねあわせた。遠くから聞こえる生徒たちのはしゃぐ声が、奇妙な背徳感を微かに煽ってくる。

「…観月先輩」
「はい、何でしょう」
「やっぱりわたし…毎日練習は嫌です」

甘え声を伴って見上げる彼女の瞳は訴えている。こうして共に過ごす時間が減ることへの悲しみを。だから触れあうことで知ってしまった温もりを手放す未練で余計にしょげ返っている鼻先を、観月は人差し指の先でもう一度軽くつつくのだった。

「まだそんなことを。あと二週間ほどでしょう、さっきの調子で、パートナーと息を合わせて」
「…はい」
「パートナーを僕だと思いなさい」

ひどく大人びた観月の物言いの前に素直に頷いて、その代わりもう一度、と、彼女は彼の両腕を掴んでねだってくる。その意図するものを理解し、仕方ないですね、と呆れたふうを装って、観月は彼女の瞼がゆっくりと閉じられる、その速度にあわせて唇を近づけた。

けれどそれは重なりあうことは果たされず、一センチの距離を残して、突如彼女のポケットから携帯電話がけたたましく鳴り響いた。ぱちりと目を開けた彼女の睫毛、そして突然現れた黒い瞳に驚かされて、観月も思わず目を見開く。その視界の中でスマートフォンのディスプレイを確認し、蒼白になりながら通話ボタンを押す彼女がいた。

「おい!どこ行ってんだよ!」

彼女が電話を耳に添えることすら待たず、空をつんざくような電子音が怒鳴りつけてきた。

「ごめん、すぐ行く!」

誰もいない空間に向けて、手のひらを立てて詫びながら、彼女は悲痛な声を出し、そして電話の向こうの怒りを聞いている。ひとしきり騒ぐ声が収まったら、通話終了をタップして、今日一番のため息を吐いた。

「観月先輩…わたし、もう行きます」
「はい?」
「二人三脚の練習。早く来いって怒られちゃったの」

ぼそぼそと呟く観月の頭上には疑問符しか浮かばない。そもそも身長や体格等を考慮して、観月たちの学年までは男女別の競技の二人三脚であった。だからこそ性別毎の練習が行われ、彼女を引きずるほどにアクティブな女生徒とペアを組んだのだと、冒頭から何も疑っていない観月だった。だからこそ練習の申し出をしたのに、いま、彼女を練習へと呼び出したのは、紛れもなく男の声なのである。

「念のため聞きますが、…今のは?」
「はい。二人三脚のペアの子です」
「…そのわりには男子の声だったような?」
「あ、はい。わたしたちの学年、男女奇数組が多いから、混合になったんです」
「はい?!」

非常に言いにくそうに切り出すのはきっと、その情報ひとつで観月が、モンスター・ペアレンツのごとき過保護と心配性を発揮することを、いままでの経験で知っていたからであろう。そして予想したとおりの反応に困った顔をつくりながらも、どこかしら願いが叶えられたと安堵したような、そんな彼女がいる。観月はもはや上級生ぶることなどすっかり忘れてしまって、ぶつけどころの見当たらない腹立ちを、彼女への台詞へと混ぜ込むのである。

「そんなことは聞いてませんし、僕の持っている情報とも違います!」
「だって。そんなのわたしに言われても…」
「せめて同じクラスなら、裕太もいるでしょう!」
「…誘ったんですけど断られました」

実際「絶対に断る」と不二が間髪入れずに突っぱねた理由は問いただすまでもないのだろう。せめて裕太なら、と唱える台詞は結果論に基づく妥協の産物であって、もし本当に不二と彼女の二人三脚など披露しようものなら、あれほどに勝敗にこだわる男の前で、集中すべきは勝敗どころの話ではなくなる。その結果、つまり彼女とペアを組み、勝っても負けても重圧と説教が待っているなら、逃げるが勝ち。不二も危機回避能力を身につけたものだと、観月は黙って考え込んでしまった。

けれど何より、たったひとりの少女のために不用意に声を荒げたり、感情を投げつけたり。そんな自分がなんとも格好がつかない。そう改めてため息を吐いた。

「いいですか、そういうことは…」
「でも、…わたしだって、ほんとは先輩と組めたらいいなって」

しかしそのあとに続こうとする説教を遮って、そんな呟きを受け止めたら、観月はそれ以上何も言えなくなってしまった。もしかすると幼稚な作戦にまんまとはまった、格好のつかない策士の成れの果てなのかもしれない。たった一年、けれど絶対に超えられない年齢という壁を見上げて嘆く彼女の瞳に偽りはなかった。その弱気をどうにか払い除け、彼女は気丈に言ってみせる。

「でも、先輩のおかげです。わたし、自信が持てました!」
「え?あ、まあ…それなら」
「パートナーとの相性と信頼、ですよね!しっかり頼ってきちゃいます!」
「いや、ちょっとそれは困る…」
「え?」

自説を持ち出してにこやかに述べられたなら、無碍に否定するわけにもいかなくて。奥歯を噛みながら不機嫌に黙り込んでしまった観月を伺うように、彼女は遠慮がちに呟いた。

「ねえ、先輩。ご褒美は何ですか?」
「え?」

二週間先、いまよりまたもうすこし秋が深まった頃。今度は制服姿で再び並んで歩く日を思って、彼女はそんなふうにお伺いを立ててくる。やはりその黒い瞳は自分しか映さない。その誠意を疑うことは野暮だと、自分勝手な嫉妬心を胸の奥底に押し込んで、観月はフンと鼻を鳴らして尊大に胸を張るのだった。

「そうですね、無事やり遂げたら、美味しい紅茶とケーキでも…」
「…それだけ?」
「え?だけ、とは?」
「えっと、さっきのは…ご褒美の先渡し?」
「さっきの?」

首を傾げる観月から目を逸らせずに、潤んだ瞳は気づきを促してくる。その赤い唇はゆっくりと開かれ、遠慮がちに、けれど迷いのないトーンで囁いた。

「…もっとたくさん欲しいです」

クラスメイトの怒鳴り声に邪魔された、今日二度目のキスを改めてねだり、そしてそれ以上も欲しいと主張する。愛しき欲張りに瞬きを二度、けれどこれ以上ない愛情を込めて、観月は彼女の右手を取った。

「そんなものは、いつでもきみが望むだけ」

そして擦り傷だらけの手を持ち上げて、うやうやしくその甲にキスをした。それに魔法をかけられて、志乃ははにかんだように笑うのだ。

「ねえ、先輩」
「はい」
「このネクタイ、体育祭まで借りてちゃ駄目ですか?」

お守りにします、とひと目でわかる男物の丈を観月の手からしゅるりと抜き取って、首から垂らして嬉しそうに笑った。それが自分の代わりに彼女を見守るのかもしれない。納得のいかない消化不良の気持ちを抱え、観月はちらりと彼女を見遣る。よその男がこの腰に触れ、髪の匂いを移して。そのことはやはり、どうしても許せないのだけれど。ネクタイを体操服の上から緩く結びつけることで、誰からも冷やかされることをわかっているはずなのに。自分が観月のものだと誇らしく主張するかの行動に免じて、しぶしぶと頷き、その代償として強く彼女を抱きしめた。